近況


↑節電中のうちの職場の廊下。ちょっとやり過ぎな気もするよ…。
ブログに一眼バトルのことをまとめたいなあ、と思っていたが、仕事がわさわさしたりして、手がつかないでいたら、あの3月11日の大震災となった。

3月11日

あの日私は職場にいた。揺れが始まって、だんだん大きくなって、部屋の中にいるのが危ない気がして、廊下に出た。どこかにつかまってないと立っていられなくて、壁にすがった。とにかく怖かった。もうそろそろ…と思ってもおさまらない、あんなに長い揺れは初めてだった。揺れのせいで防火扉が閉じてしまい、廊下がふさがれそうになったのも恐ろしかった。揺れが弱まったのを見計らってあわてて押し戻した。
揺れが収まった後、さっきまでいた部屋を見たら、本棚の本が3分の1くらい落ちていた。壁の本棚のボルトが抜けてしまっていて、本棚が曲がっていた。次に研究協力者の高齢者、学生のバイトさんたち、スタッフのみんなが無事かを確認して回った。みんな怪我もなく大丈夫だった。とにかく、被験者として協力してくださっている方(お客様みたいなもんだよね)が無事だったのがよかった。職場は北側の研究室の損害がひどかった。水道管が壊れて、天井から水が滝のように流れていた。
テレビのある上司の部屋では東北の様子が次々に映し出された。それがどのくらいの規模なのか私にはまだピンときてなかった。上司は電話をあちこちにかけていた。上司はご家族を東北の街においての単身赴任だからだ。クマのようにうろうろしながら電話をしたりメールをしたりする上司。かける言葉がない。
夕方になり、上司のご家族の無事が確認できた。一方私の方は、ずっと携帯電話が使えなかった。インターネットはできたので、ツイッターに書きこんだりしたが、肝心の連絡をとりたい人たちにはつながらない。こういうこともあるんだ、と思った。大事な人たちと携帯以外の連絡方法を持っておかないといけないんだ、としみじみ思った。
テレビでは帰宅できなくなった人たちの様子が映し出されていた。私の家は電車で2時間もかかるところなので、もう職場に泊ろうと早々に帰ることをあきらめた。最寄駅の路線も止まり、歩いて帰ろうとする人たちを引きとめて、みんなで近所のスーパーに晩御飯の買い出しをしにいった。地震から3時間くらいたっていたが、スーパーの酒売り場はワインのにおいでいっぱいだった。きっと何本か割れたんだろう。
帰宅をあきらめた人たちと一緒にテレビを見ながら晩御飯を食べた。普段はあまり研究室間の交流はないのだけど、今回はいろんな人に声をかけてもらった。一緒にご飯を食べたりした。
夜は隣の病院のリハビリ室で知らない人たちと雑魚寝した。
次の日の朝、動き出した電車に乗るため、みんな帰って行った。上司はどこかで車を借りる算段を付けて、東北へ飛び出していった。
私は、ひとつふたつ仕事を片付け、電車の運行状況を見極めて、うちに帰った。
また何かあったら困ると思い、歩きやすい靴、水筒にお茶、バナナ、etc…あれこれカバンに詰めて帰ったが、拍子抜けするくらいスムーズに電車を乗り継いで帰ることができた。