深いテーマに関わるようになった2019年後半だった

うまく書けるかわからないんですけど、これは私の日記だから書きますね。

急にスピるのだが、何かの問題でもなんでも、自分から渇望して掴んでいく以外は、その人の力量に見合った時、ぽんと向こうから課題が降ってくる(ような気がしている)。私の場合、去年の秋、仕事で知り合った人の終末期に話を聞きに行くという形でそれが実現された。その人は回復不可能な病気で、高齢で、身寄りがなく、ずっと自宅にいたいという願いがあったが、体調が悪化して入院したのだった。

回復不可能な病気である、と聞いた時から私は、その人が死ぬとき寂しくないといいな、と思っていた。なんせ家族がいないので。遠くの病院に連れていかれて、知らない人の間で死んでいくのはさみしいじゃないですか。よく知らない誰かにその人の人生がこれ以上否定されたりされませんように、とひそかにお祈りしていた。

私は子どもの頃、死ぬのがめちゃくちゃに怖い子どもだった。死ぬ瞬間のこと、死ぬまでの過程、親しい人との別れ、様々なことをシミュレートしては夜にめそめそ泣いていた。(もしかしたら、寝つきの悪い子だったのかもしれない。)

話は飛ぶが、ちょうど話を聴くために通い始めたころ、ミーティングに哲学者の先生が来てくれるようになった。哲学というのは、幸せとか嫉妬とか、人にとって根源的なことを突き詰めて考えていくものなのだそうだ。で、先生が以前やったことのあるワークショップで、「死」について扱ったんだって。だいたい、子どもの頃死ぬことが怖かった人は、2割だか3割くらいだって言ってました。

大体、高齢者関係の仕事を始めたのも、突き詰めれば子供の頃の「死ぬことに悩む」という原体験に影響されている気がする。今も、いかにしてよく死ぬために生きるかの事例集めをしているような気もする。

だけど、そういうテーマはフワフワして根気のない自分には取り扱えないと思っていた。私は自分の感情をかき乱す人とは長く付き合えない。だから、カウンセリング的なことも向いていなかったし。

そう思って、周辺をなぞることはや10数年。だけど、この話が持ち上がったとき、自分が逃げずにやれるのか不安だったが、引き受けてしまった。先に述べた謎の使命感と、結局はまだ死が他人事に感じていたということだろう。高齢の人の死は、若い人たちの死よりも自分にとって脅威ではない。なぜならば、あと40年くらい先のはずだから。だから近づいて行けるのだ。

そんな後ろめたさもあり、こんな若造にちょろちょろされるのは嫌だと思うだろうか、と心配だった。しかし、長く生きた人で、このような取り組みに同意してくれる人は器が広かった。後に続く私に、我々に何かを見せてくれようとしていたと思う。

こういう機会がもしも、20代後半だったら、自分の器がすぐにいっぱいになって、もしかしたらうつっぽくなっていたかもしれないと思う。でも、40目前だったし、周りの同僚のみんながサポーティブだったし、その人の大きな心のおかげでなんとかなった。

これからどうなるんだろう。ちゃんとまとめられるかな。みんなの力を借りながら、その人が残してくれたことを世の中に出したいです。